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体育会系という上下関係を考えてみた [徒然なるまま]

体育会系という上下関係を考えてみた

 

私は体育会系と呼ばれる人たちが生息する世界の中で尊重されている上下関係が相当な意味で苦手である。
正直言えば嫌悪感がある。

ただ断っておくが体育会系が内在する一定部分には尊敬の念を持っている。礼儀作法や集中力、団結力、先人への尊敬の念などだ。

自分が仕事をしている時にプロジェクトを進める上で体育会的な発想や対応が必要だと思う事はしばしばある。
私が嫌悪感を抱くのはそこではなくて、体育会系上下関係に潜む人間関係に及ぼす力のバランス感覚の悪さなのだ。

先ごろ、大阪で体罰に起因する自殺の問題が起こった。中学生で命を絶つという決断に至る彼の想いを想像すると哀しいなんていう言葉では全く足りない。
しかし、学校現場が生徒を殺す場所になってしまっていたのは決して偶然じゃないと思う。

スポーツを中心とする体育会系を信奉する人々が封建的な上下関係を是としているのにはついては理解出来る部分もある。
スポーツを戦と考えている人には特に封建的な上下関係を必要だと思うだろう。
軍隊的な発想で戦をする世界で強い結束を必要とする場合、一定程度の強制による秩序、序列の維持が必要だと考えられているからだ。


アメリカの軍隊の育成過程で育成者が下士官を罵倒する場面を映画などで見た人もいるだろうが、軍隊では命令を絶対的に聞く人間を生産するため一旦、徹底的に人格を壊そうとする。実弾の飛び交う中で上官の命令に反射的に反応させるための方法なのだが、それがスポーツという場違いな分野に無批判に再利用されているのが体育会系の人々が行っている手法なのだ。

敵を殺し、勝利を収めることを目指す軍隊という特殊環境の中で、強制力が働かないと組織運営や人材の育成が難しいという実態があることまでは否定するつもりはない。
戦争のような異常環境下で絶対的な命令遂行実施と結果を得る事は民主的な方法では成し遂げられないからだ。
だからある目標に一丸と向かう場合、封建的命令を組織に施す事が必要かもしれないと考える部分も無いわけではない。
しかし軍隊のような特殊環境と目標を持つ組織ならいざ知らず、いわゆるスポーツ組織や応援団、教育現場、一般企業が統制方法として軍隊を系譜としたような封建制度な方法で人間を育成、管理する点については異論がある。
この違和感の根本には体育会的上下関係の根本思想が朱子学にあり、その系譜を引いた日本陸軍の影響の残影を感じるからだろう。

私は体育会系の上下関係を支持する人々の中で、上位に立つという事を本質的に理解している人間に会った事がない。
それが異和感を抱く理由だ。
体罰や威圧による統制方法は、下の人間が反撃・反発・反論・抵抗できないという大前提がある。
上位者に対する下位者の批判や意見をキチンと受け入れない風土も体育会系の特徴だ。こうした環境は歪以外の何物でもなかろう。
元巨人の桑田投手が指摘するようにこの統制方法は“極めて卑怯者の方法”だと表現する点はこうした背景があると考える


結局のところ、体育会系の組織運営方法は、上位者にとって極めて運営し易い構図がある。基本的に論理的でなくても運営可能で、言いがかりのような命令でも有効だからだ。
年齢と地位と経験が全ての上位に立った統制根拠となっているから、下の人間にはそれを超える方法や手段が無い極めて一方的で異常な環境となる。


しかしこの異常環境の線引きは、組織の上位者の考え方によって可能でもある。人材育成や能力開発に純粋に有効で論理的な命令はともかく、体育会系に一般的な命令には上位者の恣意がかなり多く含まれている。
場合によっては個人的な捌け口による命令・指令、懲罰が含まれる場合だってあろう。
これは体育会系を経験した多くの人に共通するものだろうし、それはかつての日本帝国陸軍を彷彿とさせる悪弊に似ている。


このような点について体育会系の上位者は殆どわきまえていない。それどころか必要であるとさえ言うだろう。私は体育会系と呼ばれる人たちが尊重する上下関係に賛同出来ないのはこうした部分だ。
はっきり言えば、体育会系の封建環境は上位の人間によって居心地が良いだけなのだ。
先輩風を吹かせて下位の者に意見を許さない環境にいる上位者は、本当に人を指導できる資格があると感じているのだろうか?


過日、小樽商科大学(北海道小樽市)で、飲酒したアメリカンフットボールの一年生部員が飲酒中毒で病院に搬送されたニュースがあった。毎年春になると大学の新入歓迎コンパで頻繁に起こる現象だ。特に体育会系部員の新入者の被害者は顕著である。
昔と違って酒を強制的に飲ませることへの社会的な規制が働き易い時代でもまだこんな不幸な事件が起きている。
そもそも学生の身分で上位に立っている連中はたかだか20才前後のハナタレ小僧の連中である。
上に立って下の者に対して権力を振るう事が一体どういう意味と責任を持つのかについてキチンと教育を受けた事もないだろう連中の仕業なのだ。
酒を強要して飲ませることで起こる事故や体調への配慮もできず、飲む事=忠誠心の証しだというような大時代的な現象が残念ながら世界的に現存し、その存在そのものを否定するものではないが、飲む事を忠誠心の証しだと強制されるのは飲めない相手にとって地獄であるという程度の感性は持って欲しい。その苦痛を超えられないと仲間として認めないという神経はどう考えても幼稚で異常だろう。

また大学時代、某大応援団と朝夕最寄りの駅遭遇する時代があった。20歳にもならないハナタレ小僧の先輩対して1歳も違わない下級生が100m先からでも先輩の姿を見た瞬間に大声で挨拶している光景をみて、なんと前近代的な人たちだろうと思っていた。
先輩と言われる人々も、その直前まで同じような挨拶を強いられていたはずで、先輩風を吹かして過去の気晴らしにもなっていたのだろう。連中の統制方法の幼稚さは先輩から受け継いだ伝統という何の論理的根拠もない方法を無批判に継続していることで証明されていると言ってもよい。
しかし社会に出てみれば1歳の年齢差なんて何の価値も意味ない。年上が必ず年下を凌駕出来る訳ではないのだ。実力と年功序列は全く別なのが社会の厳しい所だ。そういったリアリティーがない統制方法を是としている体育会系の人々は、ファンタジーの世界の住人のようにさえ見える。
新入生の死者や自殺者や精神的に傷つくような人間が出るような暴力的環境を平然と是としているような連中が伝える伝統というのは一体なんなのだろう?

ものの哀れを覚えてしまう、

 

体罰はこうした環境下で平然と起こる。愛情のある体罰を声高に言う人もいる。しかし桑田元投手が言うように受ける方は全く愛情何ぞ感じないというのが大多数だろう。反撃も出来ない一方的な圧迫環境下でスポーツが楽しいはずもない。よく近所の小学生の野球チームの練習を見ているが、指導しているおっさんたちは子供相手に何をあんなに怒鳴っているんだろうと思う。

スポーツを学ぶ環境は、あんなに怒号のする中でないと成立しないのだろうか?


世の中に殴らなきゃ分からないバカが存在しているのは事実である。しかしこと学校のスポーツ現場での体罰は、そもそも目的や意図が分からない。
高校野球だろうがバスケットの全国大会だろうが、あんなもん、所詮部活じゃねえかってことなのだ。
教育の一環であるはずの部活が勝ちを意識して高校の名前を高めようとする余り、こうした事を許して来たのだろう。

今回の大阪の事件で、スポーツの体罰や指導者の資質について相当論議が起こっているため指導方法について相当な転換を余議なくされるだろう。
でもそれで良かったと思う。いままでが異常過ぎたのだ。

プロ野球でさえ未だに監督が選手を平手打ちするらしいが、そもそも目上だからと言って社会人の大人を殴るというのが業務環境下で是とされていることもかなり異常だ。
会社だったら完全にパワハラと言われる時代だ。

体育会系の持つ根本的な良い部分を否定するつもりはないのだが、体育会系の持つ不要な悪癖はそろそろ終わりにすべき時代だと思う。

 

 

 


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